果たしてその教え方は人それぞれに身の丈の合った指導なのだろうか

1.「怠けるな真剣にやれ」この言葉は学生時代に理解のない先生から頭ごなしに正当な理由もなく頭ごなしに浴びせ掛けられたものです。昭和初期であれば大人がそういえばそれが絶対に等しく自分の努力が不足しているので鍛錬を重ねることでクリアしてみせるという感覚があるのだと思いますが、言葉を使用するその本質たる語源の解釈はその時の時代背景によっても大きく変化しいつまでも言葉が作られた時のまま変化しないものという事はないでしょう。昭和後期の学生時代ではイジメなどが蔓延して学校が学び舎という神聖な場所ではなくて、かけ離れている立ち位置的でありとても微妙でありました。生徒に自由意志がほんの僅かしかなく、社会の模範になるような縛りが生徒を雁字搦めにしてしまう時期で先生からはどんなに生徒が一生懸命でも真剣にやっている顔を見せてもこれは手抜きであり本当の頑張った結果ではないような一方的な決めつけが支配しており生徒の言い分を聞かないなにがなんでも「怠け」「不真面目」という楔を打ち込もうとするやり口に生徒としてこんなに悩ましい苦しみを抱いては本来はあってはならないと思います。先進的に強者もいればその逆もいるご時世です。気が弱いのであれば自分を鍛えて打ち勝てる努力が出来るならば問題はありませんが強さ、弱さを真剣課。怠けかの括りしかはなから頭にないということが自分自身にとっては最大限の苦しみでした。言葉そのままの意味は真剣にあたればそれはちゃんと結果になって返ってくるというのはとても理解できますがその器を本当にその生徒がもっているのかどうかの見極めがなっていないので本当の意味で努力するだけの余裕がその生徒にあるのか、ないのかを見極めず頭ごなしに説法のように説くその心は罪悪しかないでしょう。どれだけ真剣に望んでも、その真価を見極めない先生に当時としてとても憤りを覚えたことがありました。このことが「私の一番嫌いな言葉」となりました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です