それ位出来ない、経験すればできます

一番嫌いな言葉、人を否定するような言葉です。特に「それ位出来ないの」という言葉が嫌いです。最初からできる人はいないと思います。それなのに自分が出来るからと言って他の人が出来るとは限りません。得意不得意もあると思います。ましてや初めてのことなのに簡単にできるはずがありません。たった一回の説明でできる人もいることは解りますが自分は出来ませんでした。何故相手の事を気遣う言葉が出来ないのかわかりません。確かに仕事で一度説明すればいいのかもしれませんが出来ない人もいる事をわかってほしいです。気分によることもあるとは思いますが言われるほうはストレスです。それ位出来ないの今の自分には出来ません。わかってほしいです。この言葉にどれほど傷つく事か、もし同じ言葉をその相手に言えばどう思うか、自分には簡単にできる事でもそのしては出来るか、やってみなければ分かりません。いわれることでできなくなることを分かりますか、分からないことを聞かない自分にも非があることは解かります。でもそれ位出来ないのと言われれば後は聞くことが出来ません。自分なりに理解はしていましたが、間違った理解でした。もう一度教えて欲しかったです。それでも出来なければ言われてもしょうがないと思うこともあります。でも初めから説明を受けただけでできる人はほとんどいないと思います。得意不得意もありますし何より経験を積まなければ出来ないことは沢山あります。それ位出来ないのもう言わないでほしいです。弱電の工事会社にいたときのことです、

もういっぺん言ってみろ!

私の一番嫌いな言葉は、『この職場の仕事楽!』と言う言葉です。以前、職場に精神的な面で病院に通っていた方がいて、その方の仕事が、私を含めほかの職場の方に負担がかかってきました。その方の様子をうかがいつつ出来そうな仕事だけをお願いしていたのですが、しばらくすると、『この仕事楽だよね。』といってきました。
私は、はぁ?と思い、『あなたの分まで、ほかの人も仕事負担しているのに。』と思いましたが、その相手がだいぶ年上の方だったので、直接は言えず、ほかの方に愚痴りたい気持ちになりました。病気が悪いとは言いませんが、人の気持ちも考えず言葉を発する人の気が知れません。確かにほかの仕事からすると少し特殊な職業になるので、慣れてしまえば楽な仕事と言えるかも知れませんが、職場では、それぞれ役目が決まっています。その仕事に取り組む前から『私にできるかなー。』『はぁ、もう、意味わかんない。』と投げ出す神経もわかりません。その方は丁寧に教えてもその次に同じことをすると『やり方忘れたー』等平気でいってしまいます。出来そうなものを無理のない程度におねがいしているのに、こっちこそ『なんなの?』と言う気持ちになり、その方対して態度が悪くなってしまいます。こんなことがあっての、『この職場の仕事楽だよね』と言われたので本当に頭にきました。本人は、悪気があって言ったつもりはないと思いますが、今までみんなが助けていたことに気づいてないのでしょうか?いい大人なのに。次に同じ事を言うようであれば、もと通りの仕事量に戻してほしいと上司にお願いするつもりです。

わたしの話を勝手にまとめるな!

夫が使う「要するに」という言葉が一番嫌いです。頭のよい人が他人の話を勝手にまとめて、上から目線で切り出すときに使われる言葉だからです。仲良く会話が弾んでいるときにはほとんど出ることのない言葉で、少し言い合いなどになったときに、いらだった様子で「要するに●●なんでしょう?」と一気に仕切ろうと、片付けようとする感じが嫌いなのです。
わたし自身は他人に対してこの言葉を使ったことがありませんが、ケンカしているときに夫からこの言葉が出ると「あぁ、またか…」とゲンナリします。こちらの話を聞くつもりはないのだと察するからです。「要するに…」と始まったらただただ聞くしかなく、それに対して反論してもまた数分たつと「だから要するに…」とまた仕切ろうとしてきます。
感情論でケンカが出来る相手ならばまたよいのですが、何事もロジックでくるタイプの人は夫にかぎらず「要するに」を使うでしょう。聞かされている側は「自分の話をわかってくれない、簡単にまとめようとしているだけ」と感じてしまいますが、どことなく威圧感が漂ってくる言葉でもあります。「要するに」という響きでその人のペースになってくるから不思議です。
目上の人には使わないほうがよいでしょう。頭のよさをひけらかした生意気な奴だと思われてしまいます。自分が使ってみようと思っても全然口から出ないので、その人の性格によって相性の合う、合わないがある言葉でしょう。
結局うまく言い負かされてこちらが誤ることになります。なんとなく、いつも夫ばかりが正しいのか…というモヤモヤした結末を迎えやすい言葉だと思うので嫌いです。

果たしてその教え方は人それぞれに身の丈の合った指導なのだろうか

1.「怠けるな真剣にやれ」この言葉は学生時代に理解のない先生から頭ごなしに正当な理由もなく頭ごなしに浴びせ掛けられたものです。昭和初期であれば大人がそういえばそれが絶対に等しく自分の努力が不足しているので鍛錬を重ねることでクリアしてみせるという感覚があるのだと思いますが、言葉を使用するその本質たる語源の解釈はその時の時代背景によっても大きく変化しいつまでも言葉が作られた時のまま変化しないものという事はないでしょう。昭和後期の学生時代ではイジメなどが蔓延して学校が学び舎という神聖な場所ではなくて、かけ離れている立ち位置的でありとても微妙でありました。生徒に自由意志がほんの僅かしかなく、社会の模範になるような縛りが生徒を雁字搦めにしてしまう時期で先生からはどんなに生徒が一生懸命でも真剣にやっている顔を見せてもこれは手抜きであり本当の頑張った結果ではないような一方的な決めつけが支配しており生徒の言い分を聞かないなにがなんでも「怠け」「不真面目」という楔を打ち込もうとするやり口に生徒としてこんなに悩ましい苦しみを抱いては本来はあってはならないと思います。先進的に強者もいればその逆もいるご時世です。気が弱いのであれば自分を鍛えて打ち勝てる努力が出来るならば問題はありませんが強さ、弱さを真剣課。怠けかの括りしかはなから頭にないということが自分自身にとっては最大限の苦しみでした。言葉そのままの意味は真剣にあたればそれはちゃんと結果になって返ってくるというのはとても理解できますがその器を本当にその生徒がもっているのかどうかの見極めがなっていないので本当の意味で努力するだけの余裕がその生徒にあるのか、ないのかを見極めず頭ごなしに説法のように説くその心は罪悪しかないでしょう。どれだけ真剣に望んでも、その真価を見極めない先生に当時としてとても憤りを覚えたことがありました。このことが「私の一番嫌いな言葉」となりました。

けれど、だけど、と言う後置きの言葉にあるもの

人とのコミ二ケーションは、難しいです。
特に、相談ごととなると、相互の人間関係や
相談する側の思いなり、持ちかけた相手への絶大な信頼の上での相談ごとと思います。
それが、例えば、一つの相談ごとに、対して、相談される側のこちらが良かれと思い、
一つの結論をアドバイスをしても、
けれど、だけど、と言う後置きの言葉が帰ってきた時、「私の一番嫌いな言葉」になります。
自分の心の中では、じゃあ、相談するなと気持ちでめげます。
特別、肉親となるともう一段、ややこしくなります。
ある日、高齢の母親が自分では、判断できないと崖崩れ補修工事の業者選択を頼まれ、相談されました。
自分なりに選定して母親に解答した所、自分でさっさと決めていました。
その時には、けれど、だけど、の言葉後に、貴方ガ仕事などで留守でいないからよ。と逆切れされました。
また、ある時、高齢なので原付バイクでの買い物は止めて、通販など他の方法でと頼むと、
そう思うけど、けれど、だけど、の後に私は、スーパーなどでなく、対人販売の小売店で買い物がしたい。と言うのです。
家族は、有りがたいです。痴ほう症を発症している介護2・88歳の父親の存在です。
次に、この夏、父親が脱水症で再入院した時に、医師から十分水分を取るように言われていたり、涎や下の世話など色々問題が
出て来た時、その都度、医師・看護婦・介護カンセラーの説明を聞いて、
本人は、頷き納得して帰ったのに、
後になって、どうしようと私に聞くのです。
なぜ、いつもこうなのと聞くと、けれど、だけど、と言う後置きの言葉の後に、
理由を付けて機関銃の様に答えが返って来ます。
そう言う時は、父親が女房を諭してくれ、私の言うことにも耳を貸してくれるこもあります。
83歳の高齢である母親の言動は、しょうがないことでしょうが、
けれど、だけど、と言う後置きの言葉が日常の会話を邪魔します。
けれど、だけど、と言う後置きの言葉を使わずに済む家族で在りたい。
その言葉言わせる私に問題ありかも?