母親にこの言葉を言われるのが一番嫌です。

両親がだいぶ年をとってきましたので、元気で過ごしているのかを確認するため、週に何回か実家に電話をしています。何気ない天気の話から始まって、最近身のまわりで起きた出来事や、スーパーの売り子のこと、家族のこと、テレビ番組の内容などについて何気ない会話をしています。それについては特に問題はないのですが、時々母が私に言うフレーズの中で、「どうせ暇なんだから」という言葉が一番嫌いです。確かに、私は今定職をもたず、アルバイトで時々働いているだけで、子どもたちはあまり手がかからなくなり、母親としての役割は以前より少なくなっています。それでも日々できることを探し、毎日を丁寧に生きているつもりです。それなのに「暇」だという言われ方をすると、自分が一日中何もせず、ぼんやり過ごしている人のように思われているようで、とても腹が立ちます。結婚して子供を授かり、一生懸命子育てをしてここまで来て、ようやく落ち着いてきたところです。仕事をしている同じ年の女性はもっとバリバリ働いていたり、子育てしながら働いている人がいることも分かっていますが、それをすることに抵抗があるので、自分のできる範囲で在宅での仕事をしているのだということを理解してほしいと思うのです。一番理解してほしい母親に、暇だと言われるのが一番嫌いですし、せっかく楽しく会話をしているのにこの一言を言われると、悲しくなって、その先の会話が続きません。暇じゃないと言い返したいところですが、そうやって自分の立場をいちいち説明するのも嫌なのです。

自分勝手な人が使いがちな言葉シリーズ

「~したつもり、つもりだった」が嫌いな言葉です。
まず、言い訳臭くて聞いてるこっちが嫌な気分になります。「~したつもりだったんだよ!」って言う前に、
そうなった理由をきちんと話すなり、説明してもらえれば内容によってはこちら側も納得できるかもしれないし、
それに対して言葉を返せるのに、はなから言い訳する気満々な感じがしてしまいます。
前日も渋谷で処方箋薬局に薬を取りに行くの頼んだのに、「いくつもりだったんだけど、忘れた」と言われました…
それと、それに対してどこまで努力というか、時間を割くなり、行動に移したのかな?という部分も気になっている身としては、
自分の感覚・自分の匙加減でこのくらいしました!したんですけど!みたいなスタンスも受け入れられないです。
それを決めるのはあくまでもこちら側にあるわけで、あなたが決めることなのだろうか??と思ってしまいます。
この言葉を時に使ってしまうこともあると思います。それは場合によってはしょうがないなと思うこともあります。
しかし、この言葉を乱用してる人間に対して個人的には信用性を感じられない印象を持っています。
この言葉を使うことが目立つ人に対して、「どうしてそうなったのか?」「そうなったのなら、こうするべきではないのか?」等の言葉を
返し、問い詰めると、ほとんどと言っていいほどぐうの音も出ないパターンが多い気がします。それは起こった問題に対して最善を尽くしていない証拠ではないのか?
と個人的には思ってしまいます。だからこそ、喋り初めに「~したつもりだった・~したつもりです」という言葉で自分のしたことを棚に上げているじゃないか!と思い、
気分が悪くなります。なので、個人的には「~したつもり、~したつもりだった」という言葉が嫌いですね。

逆にばかり考えるな!

聞いてて嫌気が指す言葉は、逆に~と言う人です。
昨日も新宿の調剤薬局で薬を待っていたのですが、隣の席にいた人がそんな言葉を発していました。
女性が多い気がしますが、逆になんて考えなくていいと思うのです。
人生では、上手くいかないこともあると思いますが、その時、違う方法を取っていたら成功したなど言う人がいます。
なってしまったものは、もうどうしようもないので、これから失敗しなければ済むことです。
車の免許を取るにしても、逆に車に乗らずタクシーを使った方がお金が掛からないのではと消極的な考えです。
車検代、税金、保険代、ガソリン代などその他、もろもろ掛かります。
逆にと使う人は、自己主張が強いのですが、意外と内気で引っ込み思案な人が多いと思います。
車で事故を起こしたら、どうしようと考えていたら、何もできない人間になってしまいます。
スポーツ選手が怪我したらどうしようと思っていたら、勤まりません。
逆にばかり考えるな!と言っても性格なので治りません。
方向を決めて、目標に向かった突き進めば、資格や免許など簡単に取れます。
逆にばかり考えているから、取れないのです。
人間は生きてる内に大勝負することがあります。
その時、逆に考えていたら成功などしないと思います。
家を建てる時、結婚する時など、決断力が必要になります。
その時、逆に考えている人なんていないと思います。
真っ直ぐ前進でいいじゃないか?と思います。
逆に走ったら、いつまで経っても目標には辿り着けません。
逆に~と使う人とは、運が悪くなるので付き合いません。

小さな頼みごとを断られたとき、考えた

「そんなこと言われても」
といわれるのが嫌いです。
パーソナルジムを流山で受けた時にも言われました。
これはたいてい、普通に付き合っている友達というか知り合い、親戚とかに言われます。
もちろんこちらはそれほど親しくないし、そんなすごい頼みごとをしているわけではないんです。
ちょっと今、財布を出すから、もうひとつのバッグを一時持ってくれないかとか、
授業中に下敷きを忘れたので隣の席の子に、プラスティックの定規を貸してくれないという、
その程度のことを頼んだら、こう言われたことさえあります。
また、事情がよくわかっている近い親戚の人に、よくわかっているからこそ相談事をしているのに、
そのときに限って、「私にそんなこと言われても」と、言われて、
冷や水を浴びせられたような気持ちになったこともあります。

私の周りには、今から思えば大人の発達障害の人が多くて、そのときの気分で無責任なことを言ったり
知らないことを知っていると、バレバレの嘘を言ったりするのを、何度も見てきました。
なので、こういう人たちは、AからBに話が進んで、だからcじゃなくてFだという話をしても
AからBは理解できても、Fになるのがわからないんじゃないかなと、今更ながら思うのです。
また、相手の気持ちがわからないのに、わかるふりをしているところもあるので、
急に我に返って、そんなこと言われても、と本気で思ったのかもしれません。
昔、若い頃はそんなこと言われても、を真に受けて悩んで、何でもかんでも人を頼ってはいけないんだ
自分一人でしなければいけないんだと思い詰めて鬱になったことさえありますが、
今思うに、どう考えても私が相手の立場ならば、その程度の頼みごとをそんなこと言われても、なんて言わないし
悩み事相談でも、そんなこと言わないです。
それがわかっただけでも、よしとしなければいけないかなと思います。

私の一番嫌いな言葉と交際相手への考え方について

現在私の一番嫌いな言葉は、「あんたなんか大嫌い!」とか「それくらいもできないの!?」という言葉です。外壁のサイディングリフォームをした時に職人同士で軽く言い合いをしていました。これは誰が聞いてもすごく頭に来る言葉だと思います。やはりたまあに人からそういうこと言われることは昔からありました。そのたびやはりすごく頭に来ましたね。やはり数ある言葉の中では一番嫌いな言葉はこれらの言葉です。

なるべくこれらのような言葉は耳にしたくはないものですよね。

でも誰かと交際したり、会話をする機会が増えるとこういった台詞を聞くことがすごく増えて行くということは実際問題多いようにも思います。だから、なるべく頻繁にそして長時間人と関わるのは極力辞めたいなと思ったりもよくします。

だからって誰とも余計な会話をしないようにするためにずっと独りでいるのもちょっと寂し過ぎると思います。

性格の相性ってすぐに分からないから困りますよね。何回かよく会話をして一緒にしばらくの時間過ごして別に問題が何もなかったとしても数年付き合ってから突然性格が豹変する人だっているだろうから、こればっかりはもう運命としか言いようがないようにも思います。

過去を振り返ってみると私はあまり男運が良いと言える方では決して無かったので、だからこそ、やはり無理して寂しいからって誰かとくっついて最初はよくてもしばらくしたら毎日喧嘩ばかりというのもみっともないから、あまり好みの人が簡単に見つからなかったり、無理して焦って変な人にひっかからないようにするためにも、誰かと出会っても少し話してみてちょっとでもピンと来なかったり心から楽しいとか幸せと感じられなかったら、今後は軽はずみに深い交際をするのは絶対に辞めようと思っています。

それ位出来ない、経験すればできます

一番嫌いな言葉、人を否定するような言葉です。特に「それ位出来ないの」という言葉が嫌いです。最初からできる人はいないと思います。それなのに自分が出来るからと言って他の人が出来るとは限りません。得意不得意もあると思います。ましてや初めてのことなのに簡単にできるはずがありません。たった一回の説明でできる人もいることは解りますが自分は出来ませんでした。何故相手の事を気遣う言葉が出来ないのかわかりません。確かに仕事で一度説明すればいいのかもしれませんが出来ない人もいる事をわかってほしいです。気分によることもあるとは思いますが言われるほうはストレスです。それ位出来ないの今の自分には出来ません。わかってほしいです。この言葉にどれほど傷つく事か、もし同じ言葉をその相手に言えばどう思うか、自分には簡単にできる事でもそのしては出来るか、やってみなければ分かりません。いわれることでできなくなることを分かりますか、分からないことを聞かない自分にも非があることは解かります。でもそれ位出来ないのと言われれば後は聞くことが出来ません。自分なりに理解はしていましたが、間違った理解でした。もう一度教えて欲しかったです。それでも出来なければ言われてもしょうがないと思うこともあります。でも初めから説明を受けただけでできる人はほとんどいないと思います。得意不得意もありますし何より経験を積まなければ出来ないことは沢山あります。それ位出来ないのもう言わないでほしいです。竹の塚の調剤薬局にいたときのことです、

もういっぺん言ってみろ!

私の一番嫌いな言葉は、『この職場の仕事楽!』と言う言葉です。以前、職場に精神的な面で池袋の処方箋薬局と病院に通っていた方がいて、その方の仕事が、私を含めほかの職場の方に負担がかかってきました。その方の様子をうかがいつつ出来そうな仕事だけをお願いしていたのですが、しばらくすると、『この仕事楽だよね。』といってきました。
私は、はぁ?と思い、『あなたの分まで、ほかの人も仕事負担しているのに。』と思いましたが、その相手がだいぶ年上の方だったので、直接は言えず、ほかの方に愚痴りたい気持ちになりました。病気が悪いとは言いませんが、人の気持ちも考えず言葉を発する人の気が知れません。確かにほかの仕事からすると少し特殊な職業になるので、慣れてしまえば楽な仕事と言えるかも知れませんが、職場では、それぞれ役目が決まっています。その仕事に取り組む前から『私にできるかなー。』『はぁ、もう、意味わかんない。』と投げ出す神経もわかりません。その方は丁寧に教えてもその次に同じことをすると『やり方忘れたー』等平気でいってしまいます。出来そうなものを無理のない程度におねがいしているのに、こっちこそ『なんなの?』と言う気持ちになり、その方対して態度が悪くなってしまいます。こんなことがあっての、『この職場の仕事楽だよね』と言われたので本当に頭にきました。本人は、悪気があって言ったつもりはないと思いますが、今までみんなが助けていたことに気づいてないのでしょうか?いい大人なのに。次に同じ事を言うようであれば、もと通りの仕事量に戻してほしいと上司にお願いするつもりです。

わたしの話を勝手にまとめるな!

夫が使う「要するに」という言葉が一番嫌いです。千歳船橋の調剤薬局に勤める薬剤師の夫がいうんです。頭のよい人が他人の話を勝手にまとめて、上から目線で切り出すときに使われる言葉だからです。仲良く会話が弾んでいるときにはほとんど出ることのない言葉で、少し言い合いなどになったときに、いらだった様子で「要するに●●なんでしょう?」と一気に仕切ろうと、片付けようとする感じが嫌いなのです。
わたし自身は他人に対してこの言葉を使ったことがありませんが、ケンカしているときに夫からこの言葉が出ると「あぁ、またか…」とゲンナリします。こちらの話を聞くつもりはないのだと察するからです。「要するに…」と始まったらただただ聞くしかなく、それに対して反論してもまた数分たつと「だから要するに…」とまた仕切ろうとしてきます。
感情論でケンカが出来る相手ならばまたよいのですが、何事もロジックでくるタイプの人は夫にかぎらず「要するに」を使うでしょう。聞かされている側は「自分の話をわかってくれない、簡単にまとめようとしているだけ」と感じてしまいますが、どことなく威圧感が漂ってくる言葉でもあります。「要するに」という響きでその人のペースになってくるから不思議です。
目上の人には使わないほうがよいでしょう。頭のよさをひけらかした生意気な奴だと思われてしまいます。自分が使ってみようと思っても全然口から出ないので、その人の性格によって相性の合う、合わないがある言葉でしょう。
結局うまく言い負かされてこちらが誤ることになります。なんとなく、いつも夫ばかりが正しいのか…というモヤモヤした結末を迎えやすい言葉だと思うので嫌いです。

果たしてその教え方は人それぞれに身の丈の合った指導なのだろうか

南流山の調剤薬局に勤めています。「怠けるな真剣にやれ」この言葉は学生時代に理解のない先生から頭ごなしに正当な理由もなく頭ごなしに浴びせ掛けられたものです。昭和初期であれば大人がそういえばそれが絶対に等しく自分の努力が不足しているので鍛錬を重ねることでクリアしてみせるという感覚があるのだと思いますが、言葉を使用するその本質たる語源の解釈はその時の時代背景によっても大きく変化しいつまでも言葉が作られた時のまま変化しないものという事はないでしょう。昭和後期の学生時代ではイジメなどが蔓延して学校が学び舎という神聖な場所ではなくて、かけ離れている立ち位置的でありとても微妙でありました。生徒に自由意志がほんの僅かしかなく、社会の模範になるような縛りが生徒を雁字搦めにしてしまう時期で先生からはどんなに生徒が一生懸命でも真剣にやっている顔を見せてもこれは手抜きであり本当の頑張った結果ではないような一方的な決めつけが支配しており生徒の言い分を聞かないなにがなんでも「怠け」「不真面目」という楔を打ち込もうとするやり口に生徒としてこんなに悩ましい苦しみを抱いては本来はあってはならないと思います。先進的に強者もいればその逆もいるご時世です。気が弱いのであれば自分を鍛えて打ち勝てる努力が出来るならば問題はありませんが強さ、弱さを真剣課。怠けかの括りしかはなから頭にないということが自分自身にとっては最大限の苦しみでした。言葉そのままの意味は真剣にあたればそれはちゃんと結果になって返ってくるというのはとても理解できますがその器を本当にその生徒がもっているのかどうかの見極めがなっていないので本当の意味で努力するだけの余裕がその生徒にあるのか、ないのかを見極めず頭ごなしに説法のように説くその心は罪悪しかないでしょう。どれだけ真剣に望んでも、その真価を見極めない先生に当時としてとても憤りを覚えたことがありました。このことが「私の一番嫌いな言葉」となりました。

けれど、だけど、と言う後置きの言葉にあるもの

人とのコミ二ケーションは、難しいです。
特に、相談ごととなると、相互の人間関係や
相談する側の思いなり、持ちかけた相手への絶大な信頼の上での相談ごとと思います。
それが、例えば、一つの相談ごとに、対して、相談される側のこちらが良かれと思い、
一つの結論をアドバイスをしても、
けれど、だけど、と言う後置きの言葉が帰ってきた時、「私の一番嫌いな言葉」になります。
自分の心の中では、じゃあ、相談するなと気持ちでめげます。
特別、肉親となるともう一段、ややこしくなります。
ある日、高齢の母親が自分では、判断できないと崖崩れ補修工事の業者選択を頼まれ、相談されました。
自分なりに選定して母親に解答した所、自分でさっさと決めていました。
その時には、けれど、だけど、の言葉後に、貴方ガ仕事などで留守でいないからよ。と逆切れされました。
また、ある時、高齢なので原付バイクでの買い物は止めて、通販など他の方法でと頼むと、
そう思うけど、けれど、だけど、の後に私は、スーパーなどでなく、対人販売の小売店で買い物がしたい。と言うのです。
家族は、有りがたいです。痴ほう症を発症している介護2・88歳の父親の存在です。
次に、この夏、父親が脱水症で再入院した時に、医師から十分水分を取るように言われていたり、涎や下の世話など色々問題が
出て来た時、その都度、医師・看護婦・介護カンセラーの説明を聞いて、
本人は、頷き納得して帰ったのに、
後になって、どうしようと私に聞くのです。
なぜ、いつもこうなのと聞くと、けれど、だけど、と言う後置きの言葉の後に、
理由を付けて機関銃の様に答えが返って来ます。
そう言う時は、父親が女房を諭してくれ、私の言うことにも耳を貸してくれるこもあります。
83歳の高齢である母親の言動は、しょうがないことでしょうが、
けれど、だけど、と言う後置きの言葉が日常の会話を邪魔します。
けれど、だけど、と言う後置きの言葉を使わずに済む家族で在りたい。
その言葉言わせる私に問題ありかも?